イチローの少年時代

4000本安打を達成し、またイチローが脚光を浴びています。

彼の母校、愛工大名電の中村監督が少年時代のイチローのエピソードを次のように語っていました。
彼と初めて出会ったのは昭和63年、私が46歳の時である。
「監督さん、スゲーのがおるぞ」というOBからの紹介を受け、私の元へ父親とやって来たその若者は170センチ、65キロというヒョロヒョロの体格をしていた。
こんな体で厳しい練習について来られるのか、と感じたのが第一印象だっ た。
私の顔を真剣に見つめながら
「目標は甲子園出場ではありません。僕をプロ野球選手にして下さい」
700人以上いる教え子のうち、14人が プロ入りを果たしたが、自分からそう訴えてきたのは彼一人だけだった。
鳴り物入りで入部したイチローは新人離れしたミートの巧みさ、スイングの鋭さを見せた。
走らせても速く、投げては130キロ近い球を放る。
一年秋にはレギュラーの座を獲得し、二年後にはどんな選手になるだろうかと期待を抱かせた。
非凡な野球センスを持っていたイチローだが、練習は皆と同じメニューをこなしていた。
別段他の選手に比べて熱心に打ち込んでいる様子も なく、これが天性のセンスというものかと私は考えていた。
そんなある日、グランドに幽霊が出るという噂が流れた。
深夜になり私が恐る恐る足を運んでみると、暗がりの中で黙々と素振りに励むイチローの姿があった。
結局人にやらされてすることを好まず、自からが求めて行動するという意識が抜群に強かったのだろう。
人知れず重ね続けた努力の甲斐あって、3年生になったイチローは7割という驚異的な打率を誇る打者に成長し「センター前ヒットならいつだって打てますよ」と豪語していた。
プロ入り後の活躍は皆さんもご承知の通りだが、入団1年目に彼は首脳陣からバッティグフォームを変えるようにと指示を受けたらしい。
「フォームを変えるか、そのまま二軍へ落ちるか」との苦境の中からあの振り子打法を完成させるのである。
その後も評論家からは「あんなフォームで打てるわけがない」と酷評されたが結局彼は自分の信念を押し通し球界に数々の金字塔を打ち立てた。
その根っこには人並み外れた彼の頑固さと、野球に対する一徹な姿勢があるのだと思う。
彼は毎年正月になると私の元を訪ねて来る。
その姿勢はどこまで も謙虚で少しも驕るところがない。
私がイチローを育てたと言われることがあるが、私は彼のことをただ見守っていたにに過ぎない。
私の方が逆に彼に教えられたことばかりである。

才能に恵まれた人が人並み以上の努力をしてスーパースターになった。
そういってしまえば単なる立志伝ですが、次の言葉に私のような凡人は励まされるのです。
「小さいことを積み上げることが、とんでもないところへ行く ただ一つの道」
あれほどの実績を残したイチローが言うのだから間違いないですね。
積み重ねよう、何事も・・・。
そう思いました。